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時間と言うのはどうしたって止まってくれない。
あれから一体どれくらいの年月が経ったのだろうか、少なくとも一万は超す筈だ。歳を数えるのはとっくにやめてしまった。確か、四桁に入って暫くしてから。
『塾長室』の椅子に座る。あの時から使っていた椅子。なるべくそのままの形にしておきたかったが、補修を繰り返すと多少なりとも変わってしまう。元の姿も鮮明には思い出せない。一万年を超えるというのはそういう時間だ。
見送った人間はかなりの数になる。教え子、同僚、友人、特別に大切な者たち。
昔は年に一度は墓前に花なり手向けたものだが、今では各地に散らばる墓を巡るだけで一年が過ぎそうだ。いや、だから全てを回ることはもうしていないのだが。
長い時の中で、まず定命のまま生きることを選んだ者が死んだ。
もとより不老の者、そして不老になることを選んだ者も死んだ。生きている者も居るが。
一万を超える時間とはそういうものらしい。いっそ何も変わらず生きている自分がおかしいのではないかと思うほどに。
いや、変わってはいるのだろう。それを実感するのは、遠い昔を思い出したときだけだが。
随分と枯れたな、と思う。もとが子どもっぽく感じやすく、それでいて妙に乾いたところもあったが。時間が過ぎるごとに、感傷的になりやすくなっているらしい。例えば今のように。
今は必要に迫られて闘うことは無い。昔、命を『かけた』ことがあったのは、二度だろうか。betだ。懸けるのではなかった。やけに勝ち目の大きな、或いは最初から決まっていた勝負で、何の面白みも無く勝った。負ける気はなかったが。
だが今は懸けとか換えでもいいような気がする。もう十二分に生きた、子どもたちの為なら今更惜しむほどでの命でも無い。そう思うことは確実に、一種の「枯れ」だろう。
ついそう零すと、古い友人はらしくないと笑う。
私は冗談めかして、お前まで死ぬところを見たくないのだと、湿っぽい声で返す。
意訳すれば気持ち悪いからやめろ、となる言葉を投げられて、互いに笑う。
椅子を撫でる。傷だらけの背もたれ、その感触が指に伝わってはっきりと「今」を自覚させる。
長い夢を見ているような心地から覚める。私はあの時代に何を置いてきたというのだろうか。何も置いてきてはいない。私はこの刹那にしか存在しない。思い出は時間的広がりではなく、脳の中の物質的な一点から生じる、擬似的な並列処理の瞬間の羅列に過ぎない。
眼鏡をかける。視力は随分落ちてしまった。最初から良い方ではなかったが、本を読みすぎた。
髪型と服に乱れの無いことを確認して、資料を鞄に詰め込む。頭の中で高速で暗唱する。
夕方の授業が始まる。
とりとめもない事を考えさせると長くなる子。
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