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その運命が永遠ならば 3
2009 / 11 / 28 ( Sat )

毎日更新が目標と言いつつ、うっかりと日付をまたいでしまう。しかし時間を調節する。

そんな背後を持ったせいで、これまでどれほど苦労してきたことか……

そんな感じで、今日は私が「生命の書」について思った事をつらつらと。

あまり企画とは関係ないが。

 

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そもそも、何故定命種と不老種が分かれたのかが疑問ではあった。
加えて言えば、私たちやプーカのように、本格的に「老いない」種族と、死に届きそうな不老種が居るのかも。

時折、「今」は「今」でしかないのだろうと思うことがあった。
戦いで命を落とす事を別にしても、数十年後、今と同じ友人たちとは居られないのだろうと。
その時私はどうするのかとも考えて、すぐにやめた事は幾度もある。
或いは、それは誰だって考えることなのかもしれない。寿命の違う知人を持つものなら。

古い報告書に、ストライダーとドリアッドの話があったように思う。
寿命の差はそれくらい当然の障害として、どういうわけだか人間の間にあるものだと、そう解釈していた。

そこでこの「生命の書」が出てきた。
別に「今までこの障害を前に悲劇的な道を選んだ人間はどうなる」なんて偽善は言わん。
人口がどうのと深遠な問題を口にしようとも思わん。
(或いは私が、そういう問題が起こるかもしれないほど遠い未来に生きるとしても)
ただ、寿命が変わるって、どういうことなんだろうな。
今まで時間に従って生きてきた人間が、その感覚から切り離されるとか。
いや、これはグリモアの加護を受けた冒険者の精神力ならば何ともないのかもしれない。
見送られるものが見送るものになり得る、但し見送るものは見送るもののままで。
どういうことなんだろうな、これは。

親しい人間と悠久の時を生きることが(老いも或いはなく)出来るというのは、喜ばしいのかもしれない。
しかしそれを望まない人間は少なくないだろう。見送る者にしても、見送られる者にしても。
仮に私の親しい人間がそれを望んだとして、私はそれを喜べるかどうか。
反対はしないだろう。ただ、諸手を上げて喜ぶかと言ったら、それは無いような気がする。
しかしそれを望まなかったとしても、やはりなんとなく悲しくなるような気がする。

この何とも言えないモヤモヤしたものは、なんと呼べばいいか。
実に非合理だ。損得勘定で考えれば、死なないに越したことはない。
良心の問題だとしてなんだろう。寿命を変える事がいけないなんて事はあるのか。理由は見つからん。

要約すると、「ワイルドファイアはとんでもない物を残していきました」って感じだな。
いや、本体はそこに居るし、あの抜け殻が本当にそうだという確証はないのだが。

まあ、色々考えたところで、結局私は目の前に現れた事を受け入れていくんだろう。
見送るはずだった誰かと一緒に、別の誰かを見送ることになっても。

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